写真:松隈 洋

松隈 洋 京都工芸繊維大学教授

profile
1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業、前川國男建築設計事務所入所。2000年京都工芸繊維大学助教授。2008年10月教授、現在に至る。工学博士(東京大学)。専門は近代建築史、建築設計論。2013年5月よりDOCOMOMO Japan代表。著書に『近代建築を記憶する』『残すべき建築』など。「生誕100年・前川國男建築展」(2005年)の他、多くの建築展企画に携わる。文化庁国立近現代建築資料館運営委員。

前川國男が東京都美術館に託したもの

 東京都美術館は、1926年に篤志家の寄付によって国内初の公立美術館として誕生した東京府立美術館(設計/岡田信一郎)の建て替えとして建設され、1975年に竣工する。建物の経年的な老朽化と増築部分の傷みのひどさなどの点から、「修築は不可能」と判断され、改築の方針が決定されたという。

 それでも、戦争を挟んで半世紀近くにわたって、さまざま美術団体の活動拠点であり、「美の殿堂」して歴史を刻んできた現役の美術館である。その改築だけに、東京都教育庁から新館を手がけることになった前川國男(1905~86年)に示されたのは、次のような厳しい設計条件だった。すなわち、工事中も現存の美術館の機能は中断しないこと、公園内の樹木は原則として伐採してはならないこと、新館の軒高は15mに抑えることである。

 さらに、旧館よりも狭い敷地に、旧館の1.8倍となる延床面積2万7千㎡の美術館を建て、主展示場の4棟は同じものとする要求も重なった。こうして、建物の過半を地下に埋め、中央の広場を、同じ形をした主展示場4棟と、企画展示棟、食堂棟が取り囲む空間構成の骨格が形づくられていったのである。しかし、こうした難しい条件の下で、前川がさらに求めようとしたのは、都市における公共空間の実現だったのだと思う。

 

 そのことを裏付ける資料が、1972年3月に作成された『東京都新美術館基本設計説明書』(前川建築設計事務所蔵)の中に掲載されている。それは、敷地の範囲を超える上野公園全体に広がる粘土模型の写真で、画面左上の上野駅前に相対して建つル・コルビュジエの国立西洋美術館(1959年)と自身の設計した東京文化会館(1961年)から始まり、中央の噴水広場を経て、手前右下の東京都美術館へと続く上野の杜の景観が手に取るように理解できる。そして、この写真からは、東京都美術館の中庭を囲む空間構成に、国立西洋美術館と東京文化会館の間に実現した広場から噴水広場へと続く流れを引き込み、もう一つの広場的な公共空間を実現しようとする意図が込められていたことが読み取れる。写真の前ページには、「建物へのアプローチ」と題して、次のような説明が記されていた。

 

 「公園を通って来館する観衆は、公園とのつながりを持ち、且つ美術館の雰囲気のにじみでた外部空間―エスプラナードに到り、さらに、一段低い「広場」へと導かれる。ここはエスプラナードより一段と高い芸術的雰囲気にあふれ、四周のガラス面をとおして、それぞれの展示場の様子をうかがえる。いわば、この美術館全体の「ヘソ」とも云うべきところである。」

 

 評論家の加藤周一は、「自由・孤立・伝統の問題」と題するエッセイ(『加藤周一セレクション3』平凡社ライブラリー、2000年所収)の中で、前川が切り拓いた空間構成の方法について、「あたえられた敷地のなかに何棟かの建物を配置して、そこにいわば極小の都市空間を創りだす」態度だとして、東京都美術館で創り出された「歩むに従っての景観の変化が、鮮かである」と高く評価した。

 そして、このような方法が込められていたからこそ、2012年の大規模な増改築を経た現在においても、東京都美術館は、周囲に開かれた公共空間の「ヘソ」としての意味を持ち続けているに違いない。都市の中に人々の拠りどころとなる公共的な空間を盛り込もうとすること。この美術館に託された前川の思いが、これからも、上野公園の未来に向けての、ひいては東京の都市計画の将来像を描く上での指針となることを祈らずにはいられない。

『東京都新美術館基本設計説明書』(1972年)に掲載された模型写真

『東京都新美術館基本設計説明書』(1972年)に掲載された模型写真 撮影/村井修

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